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心からの感謝状 (4)


  周 斌 (中国)

 部屋へ戻って、椅子に座った。目の前の、ハンドルも完全に壊れてしまったトランクは、キャスターが1つしか残っていなかった。その下部もずっと長く引きずられたため、壊れた一隅から中のお土産が汚れて、黒く見えていた。上海を出発した時、ぎゅうぎゅうに詰めた3つの段ボール箱の中身も、半分ぐらいしか残っていなかった。私の胸は締め付けられたようになり、また泣きたくなったけれど、涙腺が底まで涸れてしまったようにもう涙も出なくなっていた。一生涯分の涙をこの何時間かの間に全部、流してしまった気がした。顔でも洗おうと、トイレに行った。鏡の中の真っ赤に腫れ上がった目を見て、気が付いた。今日一日、トイレに行っていない。普段、小便として排泄すべき水分は、もしかすると、今日だけ全部逆流して、目からこぼれ落ちたのではなかろうか。気持ちが悪くなり、蛇口をひねって、顔を洗った。洗っているうちに、口に入った水を舐めた。日本の水は甘くて、美味しい。昨日の夕食以来、一粒の米も、一滴の水も口に入れていなかったことも思い出して、喉が急にからからに渇いて、そこで立ったまま水をがぶがぶ飲んだ。

 美味しい水を飲むと、鎮痛剤でも飲んだように気持ちが落ち着いて、荷物を整理する気力がわいてきた。王さんは住む場所も、食事つきの仕事も提供してくれると言ったので、私はそれを信じて、船中での3日間分の食料だけを持ってきて、それは船で全部食べてしまった。財布の中には、もう7千円しか残っていない。食べ物がない。住む所もない。お金もない。仕事もない。言葉も通じない国で、どうやって生きていけるのだろうか。東京駅から六本木、六本木から広尾への片道だけで300円以上の電車賃を使った。往復の電車賃を計算すると、私はあと1週間も生きていられない。住む事を考えると、毎日、何も食べなくても、2日間の滞在料金しか持っていないのだ。どうしよう? 電車賃も高い、住まいも高い、食べ物はもっと高いだろう。想像すればするほど恐ろしくなってきた。六本木を歩いている時、売春婦みたいな女性をたくさん見た。こんな仕事なら現金をもらえるな、とやけっぱちな考えが一瞬脳裏をよぎった。私の家庭では、売春ほど人間の尊厳、人格を売る最悪な生き方はないと教えられていた。売春婦という単語が私の脳裏に浮かんだ途端に、女として生まれたかぎり、貞節を守って死んだ方がましだと思った。

 とうとう私は、「死」を覚悟した。どうせ死ぬなら、シャワーを浴びて、大好きな白いワンピースを着て、身を綺麗にしてから、純潔なままで人生を終わらせた方がいい。荷物をくくった太い縄をじっと眺めた。長い距離を引きずられて、擦り切れそうになっていたため、このままではもろくて使えない。一旦、すべての縄を集めて、その中で丈夫な部分を3本をまとめて擦りあわせ、1本の太い縄を作りあげた。それをシャワールームの上にある鉄の棒にかけた。「ああ、これって、人生の最後のシャワーになるんだな」とシャワーを浴びながら考えると、シャワーにまじって涙が再び流れ落ちてきた。目の焦点が合わなくなり、王さんの冷笑しているどす黒い顔が視界いっぱいに広がってくる。「お前、死ね!早く死ね!」と王さんの荒っぽい声も聞こえてくるようだ。私は首吊りするため、裸のまま浴室から飛び出し、部屋から椅子を取って来た。でも、親、そして汪先生には事情を説明しないと、このままでは死ねないなと気がついて、また慌てて服を着て、便箋に遺書を書き始めた。親愛なるパパ、ママ……私を生んでくれ、育ててくれて、本当に有難うございました。家での生活は貧乏だったけど、とても幸せだったと今になってやっと分かりました。でも、もう遅い。あなたがたがこの手紙を受け取った時、私はもうこの世にはいません。ごめんさない……。

 ここまで書くと、目が見えなくなるほど涙が溢れて、紙がびしょびしょに濡れて字が書けなくなった。濡れた紙を捨てて、また最初から書き始める。同じ事を何回も繰り返した時、ふっと考えた。両親がこの手紙を読んだら、私以上に泣くことだろう。彼らはこれから一生、そうやって泣き続けて過ごさなければならない。私は恩を受けた両親に、こんな残酷な事をしてもよいのだろうか。人間っておかしい! 今まで親を憎んで早く家を出たかったのに、目の前には親が愛してくれた思い出が映画のように現れる。

 ある日曜日、父が勤め先でもらった皮も剥かれた梨を、弟達には内緒で私だけにくれて、指を口にあててシーと言った時の顔。母が私の来日用のセーターを編んでいる時に、居眠りをして、針が鼻に刺さったときの、顔を歪めた表情。出発の日の朝、会社の食堂から肉まんを洋服で包んで、大事な赤ちゃんを抱くように胸に抱えて夜勤から帰って、全身が汗でびしょ濡れになった母は、「早く、熱いうちが美味しいから、たくさん食べてね。日本へ行ったら、こんな美味しい肉まんは食べられないよ。残ったのを包んで船で王さんと一緒に食べなさいね」と私に言った。「今日は、お姉ちゃんが日本に出発する日だから、お前達は我慢しなさい」と弟たちに言った母の優しい顔。その日、私は人生の中で一番幸せな日だと思った。あの日、10個の肉まんを私は一人じめにした。私の両親に対する愛より、両親が私に与えてくれた愛の方が、遥かに深い。親の恩は山より高く、海より深い。その時に身をもって、心に刻み込んだように悟った。
 「家に帰りたい、親に会いたい。死にたくない」と私は叫んだ。でも、私には帰りの船賃すらない。お金の事を考えると、汪先生が新聞紙で包んだ給料を渡してくれた時に触れた温かい手と、私の将来を期待してくれた優しい瞳が、また私の目の前に浮かんできた。私の死で汪先生の25年間の苦労を一瞬にして消し去ることは絶対に駄目だ。他人の金を返さないままで、死ぬ権利など、だれにもない。私は汪先生のあの25年間の給料にまつわる波乱万丈の苦労話を思い出した。

 「汪先生は文化大革命の時、短い間に母親と最愛の奥様をほぼ同時に亡くされました。こんな辛い事があっても、我慢して耐えてこられました。何が支えになったのですか」
 「人間として生まれたということは、ダイヤモンドとしてこの世に生まれたのと同じ事ですよ。本当のダイヤモンドは磨かれることを恐れません。磨けば磨くほどその価値が高められます。苦しいことや奈落の底に落とされる事はすべて、神様がその人に幸福を与える前の試練です。その試練を乗り越えれば、次に明るい幸せが待っているはずですよ。今回、日本へ行くのも、いろんな大変なことがあると思うが、どんな辛い事があっても、工夫して乗り越えてくださいね。艱難汝を玉にすという日本の諺がある。その意味は、人間は苦労する事によって鍛えられ磨かれて、立派な人間に成長するんだ」

  汪先生はこう言って、私に教えてくれた。自殺という事は親や親友など自分の周りの人々を苦しめ、悲しませるだけで、自殺した本人に何一つも良い事のない馬鹿げたことだ、と次第に考えが改まった。

 「頑張って下さいね」というあの2人の青年の優しい声がまたどこからか聞こえてくるような気がした。そうか、頑張ってみようか。もしかするとあのような優しい日本人に、もっと会えるかもしれない。1円を10円として使えば、私には7万円がある。それを最後の最後まで使っても生きて行けなくなったら、乞食になってでも、日本海を泳いででも、親の所まで帰りたい。運が良ければ船に助けられるかも知れない。助けられなかったとしても、上海の岸壁に漂着する可能性もあるから、とりあえず自分の手では自分の命を絶たないことにしよう、と、決心した。親の愛が私を死の崖っぷちの絶壁から救ってくれた。汪先生の25年間の人生を費した貴重なお金が、私を沈んだ海のどん底から助け出してくれた。2人の日本体育大学の青年の優しさが私の命を救ってくれて、私に生きる勇気と希望を与えてくれた。再スタートを覚悟した途端、どっと疲れが出た。電気を消して寝ようとすると、カーテンから優しい白っぽい朝日が透き通って、ぼやけた光が差し込んできた。私の人生初の徹夜だった。 (続く)
(2012年5月掲載)

【目次】
>> 心からの感謝状 (1)

>> 心からの感謝状 (2)
>> 心からの感謝状 (3)
>> 心からの感謝状 (4)
>> 心からの感謝状 (5)

【編注】
筆者の周さんは、親切にしてくれた2人の日本人学生(ともに男性)を捜しています。1986年当時、学生の1人は「日本体育大学の鈴木さん」だったというのが唯一の手掛かりです。2人は現在、40歳代ではないかと思われます。ご存じの方はご連絡くださいませんか。連絡先は、「北嶋千鶴子の日本語教室」(tel/fax. o42-422-5219、info@japanese-nihongo.com)です。