日本体験 外国体験 Experiences in different cultures
space
| 108 周 斌 | 戻る back <<
 

心からの感謝状 (2)


  周 斌 (中国)

 1986年の夏のある日、劉先生の家の前を通りかかったため、たまたま遊びに行ったことによって、私の運命はがらっと変わってしまった。

 「周さん、日本へ留学しませんか」
 「本当ですか! 信じられない。どういうことなのですか」
 「実は、僕が50年前に留学した時の大家だった水野さんと連絡が取れたんです」

 劉先生は興奮を押さえ切れず、朝日新聞の一面に載った「半世紀ぶりの再会」というタイトルの記事を見せてくれた。86年、劉先生は朝日新聞社に水野さんを探してくださいという依頼の手紙を出し、1ヵ月後、日本の水野さんと上海の劉先生の間に細い糸がつながったのだ。
 「水野さんはとても優しい、親切な方だから、あなたの保証人になってくださるよう頼んであげますよ」

 二週間後、水野さんが保証人になるための書類を劉先生の所に送ってきた。その頃、中国で紙幣の最高額面は10元で、私が上海の漢方薬局で働いた時の日給は1元ほど月給は36元という世界で、いきなり日本の学費の欄にゼロが数え切れないほど書いてあるのを見て、別世界の話のようで、たちまちがっかりしてしまった。「どうしたら、こんな膨大なお金を集めることができるのでしょうか」と溜息ながらに呟いた。

 「汪先生は正義感が強く、勉強熱心な周さんが大好きで、よく誉めていましたよ。最近、政府はやっと汪先生の件を冤罪と認めて、25年間分の賠償金を支払いました。周さんが勉強のために借りたいと申し出たら、貸してくれるかもしれないですよ」と劉先生がアドバイスをしてくれた。劉先生の言葉に励まされて、私は汪先生の家へ相談に行った。

 「先生、大変申し訳ございませんが、単刀直入に申し上げます。是非とも助けていただきたい事があります」
 「えっ、どんなこと?僕の微力でもできることなら、やってあげますよ」と汪先生が笑いながら、言った。
 「私は幼い頃、父から日本という国の不思議な力の話をよく聞きました。劉先生からも孫文や周恩来や魯迅など、日本留学経験者のお話も聞きました。目の前の留学経験者の劉先生も汪先生も、私の周りの中国人より遥かに教養があることを自分の目で確かめました。だから、日本へ行って、本当の日本を見たいんです。日本が経済を成功させた秘密を探って、人間の品格を育てる精神を身につけて、将来、中国へ帰って、その技を中国人に教えて、中国を日本以上の立派な国にするため貢献したいのです」
 「すごく立派な抱負ですね」と汪先生が真剣に聞いてくれた。
 「今、劉先生のおかげで、劉先生の友人の水野さんが私の留学の保証人になってくださいました。しかし、残念ながら、日本語学校の入学費と半年の月謝を先払いしないと、ビザの申請ができません。先生、なんとかお金を貸していただけませんか」と私は頭を下げて、お願いした。すると、先生は急に唇を噛んで、立ち上げて、両手を後に組み合わせて、部屋の中にうろうろ歩き始めた。

 「先生、もし日本へ行けるなら、私は必ず一生懸命勉強して、良い成績を取ってご報告致します。命をかけて必死に働いて、先生のお金を一日でも早く返すことを約束いたします。何卒宜しくお願いいたします」と私は合掌して、再び頭をふかぶかと下げた。部屋はしんとして針一本落ちても聞こえるぐらい静かだった。私はずっと頭を下げたまま、裁判所の生死判決を待つような気持ちで先生の返事を待っていた。

 何分か、何時間を待ったか分からないだが、身体がだんだん冷たくなるのを感じた頃、「周さんなら、しっかり勉強してくれるでしょう。僕が持っているお金を全部貸してあげます」と先生は一語と一語とゆっくり、はっきり判決を読んでくれるような口振りで言ってくれた。私、一瞬に血が沸き上がったように、涙ぐんだ目差しで先生を見上げて、再度合掌して頭を下げた。汪先生はポケットから鍵を出し引出しの鍵を開け、新聞紙に包まれた分厚い束を出して、私の手の上に載せてくれた。とても重かった。こんな大金を触ったのは生まれて初めてだった。重さが腕を通って、肩に伝わり、責任をひしひしと重く感じた。よし! 一生懸命勉強して、中日友好のため、中国のため、将来のために頑張るぞ。絶対に先生に恩を返さなければいけない、と決心した。

 劉先生と汪先生のおかげで、1ヶ月もたたないうちに私は留学のビザを取得した。しかし、日本へ行く旅費と生活資金はまったくめどが立たなかった。我が家は典型的な男尊女卑の家庭だった。母が私を身ごもって1ヶ月の時に、父は月が枕に落ちて来る夢を見た。中国では妊娠中に月の夢を見ると必ず女の子が生まれるという伝説があったにもかかわらず、両親は私に生まれる前から文武両道という男の子の名前を付けて、男の子を欲しがった。毎年、春節に弟達は豪華なおもちゃを買ってもらえたが、私は6歳の時にたった一度、お店の中で一番安い、プラスチック製のお人形を買ってもらっただけだった。

 「あなたはお姉さんだから、ちょっと我慢しなさい」というのが、例年春節にプレゼントを配る時の両親の口癖だった。そういう家庭だったから、物心ついた頃から愛されていないことが分かっていた。それならば、自分の幸福は己自身でつかむしかない、と幼い頃から私は決意していたが、今回は例外だと悩んだ末、母に「お金を貸して欲しい」と大胆に頼んでみた。

 「ダメよ。あなたの下に弟が2人もいるんだから。将来、彼らが結婚する時に使うために、貯金をしているのよ」とけんもほろろに断られた。やっぱりだめか。私はがっかりする間もなく、同僚の将さんという友人に借金の相談をした。偶然、彼女の友人である王さんも日本留学のビザを入手したという。将さんはすぐ王さんの家へ連れて行ってくれた。王さんとはまったくの初対面だったが、彼女はとても親切だった。

 「私の叔父は東京で大きい中華レストランを経営しているの。東京駅まで迎えに来てくれるとは言ってたけれど、やっぱり一人で日本へ行くのは心細く思っていたのよ。あなたと2人で一緒に行けるなら、最高だわ。東京ではたいへんな人手不足なので、叔父はもうすでに私のためにレストランの近くに6畳のアパートも借りてくれたのよ。1人だと家賃が高すぎて心配していたので、一緒に住んでくれれば、家賃も半分になるし、私も助かるわ」と、一気にしゃべった。

 「一緒に行けるなら、嬉しいのですが、私はとても貧乏だから、飛行機は無理なんです。船でもいいでしょうか」と私は恐る恐る尋ねて見た。王さんの家は我が家より数段裕福に見えたので、船は無理だろうと思った。

 「大丈夫よ。新しい政策で、うちも取り上げられていた良い家具などを返してくれたけど、文化大革命の時なんかすごく貧乏だったのよ。飛行機代は高すぎるから船で行こうと思ったんだけど、調べてみると船だと、3日もかかるの。その間一人ぼっちはどうかなと悩んだところだったのよ。良かったわ。次は7月26日に神戸行きがあるから、私、先に切符を買いに行くわ。そのお金は後払いでも良いわよ」と彼女は言ってくれた。とても親切な人だと感心した。私は天にも登るほど嬉しかった。彼女にすべての言葉を尽くして感謝した。彼女を紹介してくれた友人にも何度もお礼を言った。

 翌日、王さんから電話があった。
 「昨夜、東京の叔父に電話をしたの。あなたの事を話したら、彼は大喜びしたわ。皿を洗う人が足りないんだって、着いたら、すぐ働いて欲しいと言われたのよ。食事付きの給料なの、良いでしょう。だから、食べ物など一切持ってこなくていいと言われたわ」
 私は嬉しくて、彼女と彼女の叔父さんへ感謝のため、最高級のシルクや彫刻品などをお土産としてたくさん買いこみ、荷物に積んだ。(続く
(2012年3月掲載)

【目次】
>> 心からの感謝状 (1)

>> 心からの感謝状 (2)
>> 心からの感謝状 (3)
>> 心からの感謝状 (4)
>> 心からの感謝状 (5)

【編注】
筆者の周さんは、親切にしてくれた2人の日本人学生(ともに男性)を捜しています。1986年当時、学生の1人は「日本体育大学の鈴木さん」だったというのが唯一の手掛かりです。2人は現在、40歳代ではないかと思われます。ご存じの方はご連絡してくださいませんか。連絡先は、「北嶋千鶴子の日本語教室」(tel/fax. o42-422-5219、info@japanese-nihongo.com)です。