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心からの感謝状 (1)


  周 斌 (中国)

 「感謝状を書こう!」
 毎日、心の底から湧き上がる私の気持ち。
 誰に?
 1986年7月28日に、東京駅で私を救い、私に生きる勇気と精神力をくれた日本体育大学の二人の学生さんへだ。

 
 私は上海でごく普通の労働者家庭に生まれ、平凡な暮らしをしていたが、1966年の文化大革命で、労働者以外の階級と接点を持つようになった。
文化大革命の初期、北京で大革命が起きたと新聞などで伝えられていたが、そのうち私のまわりでも、今まで尊敬された知識人や資本家やエリート幹部などが、次々に逮捕されはじめた。うちは無産階級の労働者だから、安心して勉強しなさいねと親に言われ、緑のランドセルを買ってもらった。
毎日、鏡の前でそのランドセルを背負って、小学生になった自分の姿を想像し、学校に行くのをとても楽しみにしていたものだった。

 入学式の後、まだインクの匂いが残る教科書をもらった時は、もっと嬉しかった。家に帰るとさっそく国語の本を全部読み終わったが、翌日学校に着いたら、国語の本に反革命の内容があったと言われ、先生の指示に従って筆で教科書の内容を塗りつぶしたり、新聞紙でページを貼りつぶしたりした。1ヶ月もたたないうちに、学校も閉鎖されてしまった。
その数年後、毛沢東の指示によって、学生は学校ではなく、農村や工場で農民や労働者たちと勉強することになった。

 ある工場で、ここに日本のスパイとして打倒され、強制労働させられている劉家澤という老人がいるので、その男とは交流するなと工場長に警告された。翌日、工場に入ると、その老人は早くやってきており、すでに床を丁寧に掃除していた。老人は私たち学生を見ると、腰を低くして微笑み優しい声で挨拶をしてくれた。工場長の警告があったため、私たちは皆返事をしないようにして、彼を無視した。

 次の日も、その次の日も、老人は私たち学生よりも早く工場に来て、床を丁寧に掃除していた。いくら無視されても、毎日必ず同じように腰を低くして微笑みながら丁寧に挨拶をしてくれた。私たち学生は労働者に学ぶために工場に来たので、労働者たちには必ず挨拶をしたが、労働者たちは誰も私たちを相手にせず、私たちの挨拶は無視された。挨拶を無視される事がいかにあわれか身を以ってよく分かった私は、皆の前で声を出してその老人に返事することができなくても、彼に向って頭を下げて会釈するようになった。仕事中、まわりの若い労働者たちがいつも下品で乱暴な言葉を使って、その痩せ細っていつ倒れてもおかしくない白髪の老人に、重労働を命令している。それを見るたび、私の心は何とも言えない痛みに襲われた。日本のスパイなどに同情したらいけないとは思いながら、何とかその老人を助けたいと私は思い始めていた。

 私たち学生は工場で労働者達と一緒に働くが、給料をもらえない。そのかわり昼食は無料だったため、私はいつも多めにもらって、誰もいない工場の暗い角に座って食べている老人の貧弱な弁当箱に移してあげた。老人はいつも感謝の目差しで私を見た。老人は一見、汚い労働者に見えるが、汚れた労働服では覆いきれないような上品かつ優雅な人格がその物腰に漂っている。どうしてこんな人がこんな酷い目に会うのかと、私はいつも不思議に思っていた。

 ある日、誰もいない時に、「どうして日本のスパイになったの」と小さな声で聞いてみた。

 「いや、私は日本へ留学した事はあったが、スパイなどしたことはまったくありません」
 「日本は中国を侵略した悪い国なのに、どうして留学なんかしたの」
 「それは長い話になるから、こんな所では話ができない。今後、時間があったら、ゆっくり話しましょう」
 「いや、私はとても知りたいの。ここで無理なら、日曜日に私の家へ遊びに来てください」
 「いや、それはいけない。私が行くと、あなたの家族全員に迷惑をかける。どうしても知りたかったら、私の家に遊びに来てください」

と、彼は丁寧に住所を書いてくれた。学校の先生よりも遥かにきれいな字を書いたので、さらにびっくりして、彼の真実の姿をもっと知りたくなった。

 日曜日、良い天気に恵まれ、とても明るく温かい初夏の午後だった。住所通りに劉さんの家を見付けたが、玄関を開けると、そこは外と全く丸違った空気がよどんでいた。一年中日が入らないのか、暗く湿った空気に、人間の匂いと料理の匂いなのかよくわからないごちゃ混ぜになった妙な匂いがした。二階へ上がる階段が目の前に見えるが、玄関を閉めると、階段がどこにあるかはまったく見えないほど真っ暗だった。私は二、三度玄関を開けて、階段の位置を確認してからこわごわ登り、やっと二階にある劉さんの部屋へ辿り着いた。そこはとても暗くて狭い一間だった。劉さんは小さなライトに本をくっつけて読んでいた。

 「ああ、よくいらっしゃいましたね。嬉しいよ。私がここに引越してから5年もたったが、あなたが初めてのお客さんだ。ここに入るのを誰かに見られませんでしたか」
 「大丈夫。うちは両親とも労働者だから」
 「でも、反革命に同情するという罪もあるからね。気を付けた方が良いよ」
 「私にはあなたが反革命者のような悪人とは思えないのよ」
 「そんなことを言ってくれたのは貴方が初めてだ。私は反革命の徒なんかではない。私が1934年に日本の早稲田大学に留学した事は事実だ。私は1936年に東京で詩人の郭沫若の紹介で中国共産党員になった。1949年に蒋介石が率いる国民党軍が上海周囲に大量の地雷を埋めた時、私は命がけでその地雷配布図を共産党に渡したんだ。それによって、共産党が率いる解放軍は一人の犠牲者も出さず、国民党政府を覆すことができた。それが中国共産党に高く評価されて、私は上海市政府の高級幹部になって、17年間も祖国のために働いたんだ。日本のスパイだなんてまったくの冤罪だ。だから、私は毎月、ずっと中央政府と周恩来総理に手紙を書いて、事実を明らかにするように懇願している」
 「やっぱりすごい事をやった偉い方だったんですね。私の第一印象が当った。郭沫若も日本へ留学したんですか」
 「そうです。周恩来総理も日本へ留学したことがあったんですよ」
 「おかしい! 日本はとても悪い国と教科書にもいろんな本にも書いてあるのに、どうして日本に留学した中国人は良い人ばっかりなんですか」
 「人間の指も十本それぞれ長さが揃わないのと同じように、日本という国も全部悪いでもなく、全て良いとも言えない。でも、人間は良い方を学べれば、良い人間になるんだよ。孫文も留学してから、博愛を提唱して国民党を設立したんです。日本の良い所を学んだ人は、皆立派な人間になりましたよ」
 「日本にも良い所があるというのは初めて聞きました。でも、確かに我が家で、父もよく日本のことを不思議な国だと言っています。戦後、焼け野原の交差点に立っている警察官でさえ、つぎはぎだらけの制服を着ていたというのに、十年もたたないうちに世界一の造船大国になって、また二十年もたたないうちに、アメリカに次ぐ第二の経済大国になって、この小日本鬼子はすごい所があるねとよく言ってました。でも、私はそれを聞いて、いつも父が反革命の思想を持っているなと恐かったんです。でも、考えてみれば、確かに中国の名士たちは、皆、日本へ留学したことがありますね。今おっしゃった孫文、周恩来、郭沫若だけではなく、魯迅や、中国の国歌を作った聶耳まで日本に留学してますよね。やっぱり、宣伝と真実との間には何か溝があるようですね。私も日本語を勉強して、日本へ留学に行って、真実を確かめてみたいな」
 「だめだめ、今は日本語を勉強するほど恐ろしいことはない。テキストもないし、あなたをそそのかしたといわれて、私もさらに反革命分子になってしまう」

 1970年代の後半に入って、中央政府はやっと劉さんに対して冤罪だったという判決を下した。80年代に入ってから、劉さんは20年ぶりに自分の本来の家へ戻った。その後、日中間の往来が多くなってきて、劉さんは70歳の高齢であったにもかかわらず、日本語ことわざ辞書の翻訳に着手した。これはチャンスだと思い、私は劉さんに再度日本語の勉強をお願いしてみたが、

 「私の日本語は30年近く使わなかったから、読み書きは大丈夫ですが、発音があまりよくないです。僕と一緒に翻訳をやっている汪錦元先生を紹介します。彼は中国人の父親と日本人の母親の混血児で、完璧な日本語の発音を教えてくれますよ。
汪先生のお父さんは蘇州の官僚の出身で、1910年代に国費で早稲田大学へ留学したんです。そこで京都の東大寺のご住職の長女と恋愛結婚し、汪先生が六歳の時に家族全員で蘇州へ帰ったのです。が、間もなくお父さんが亡くなった為、母上は上海で通訳と翻訳をしながら、子育てをしました。
汪先生は成人後、朝日新聞社の上海事務所で働き、中国共産党員になった。その後、中国共産党の指示で日本傀儡政府の汪兆銘大統領の通訳をしたのです。日本語、上海語、蘇州語、北京語、英語などの語学能力、また母親に厳しく躾られた仕事への丁寧さ、しっかりした人格で認められ、間もなく大統領の専用通訳兼第一秘書になりました。そこで、汪先生は重要な情報を中国共産党に流し、新生中国に重大な役目を果たしたのです。
1949年、中華人民共和国が成立した時、周恩来総理大臣は汪先生を高く評価して、外務省の要職を与えました。彼の奥様もまた素敵な人です。元NHKの広東語のアナウンサーをしていた香港の富豪、南洋兄弟煙草公司の創立者・簡照南の娘だったが、とても腰が低く、そして中国の一流女優よりも美人だった。残念ながら、奥様が5人目の子供を身ごもっていた1956年に、汪先生も共産党内部の権力闘争に巻き込まれ、反革命分子のレッテルをはられ、10年間も投獄された。文化大革命で牢が足りなくなったため、工場での強制労働を命じられ、一応自宅へ戻れるようになった。が、10年ぶりに息子を見た母親は一晩で髪の毛が真っ白になって、間もなく亡くなってしまった。奥様も文化大革命の残忍な取り扱いに耐えられなくなり、やがて上海の運河に身を投げて自殺してしまったんです」
 「可哀想ですね」
 「でも、彼はとても偉いですよ。私よりさらに年上なのですが、今、私と一緒に一生懸命翻訳の仕事をしています。たいへん尊敬できる人です」

 その後、私は劉先生の紹介状を持って、汪先生の家へ行き、日本語を勉強し始めた。しかし、教科書などどこにもないので、汪先生は手書きで「あいうえお」から教えてくれた。 (続く
(2012年2月掲載)

【目次】
>> 心からの感謝状 (1)
>> 心からの感謝状 (2)
>> 心からの感謝状 (3)
>> 心からの感謝状 (4)
>> 心からの感謝状 (5)

【編注】
筆者の周さんは、親切にしてくれた2人の日本人学生(ともに男性)を捜しています。1986年当時、学生の1人は「日本体育大学の鈴木さん」だったというのが唯一の手掛かりです。2人は現在、40歳代ではないかと思われます。ご存じの方はご連絡してくださいませんか。連絡先は、「北嶋千鶴子の日本語教室」(tel/fax. o42-422-5219、info@japanese-nihongo.com)です。