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心からの感謝状 (3)


  周 斌 (中国)

 7月26日、王さんと神戸行きの鑑真号に乗った。昼12時には船が上海の岸壁を離れた。見送りに来た家族が見えなくなって、寂しい気持ちと旅立ちへの希望のときめきが、胸の中でさざめき合った。日本語をしっかり勉強して、日本の経営神話を徹底的に分析しマスターして、中国へ帰って中国人に教え、立派な中国を作ろう。大きな抱負を抱いての船出だった。

 鑑真号の5等の船底は、電気を付けたにも関わらず、暗かった。直径50センチの丸い窓際の方が少しだけ明るかったので、私はダンボール箱を窓際に移動して、その上に座って、日本語の本を開いた。王さんは甲板の上に沢山中国人が集まっているので、おやつの向日葵の種を部屋に取りに来た。私が日本語を勉強している様子を見ると、「勉強なんかやめて、上で皆と一緒に話しましょう」と強い口調で言った。私は断れなかった。甲板に出ると、そこには日本人もいた。私は中国人のグループにいながら、隣の日本人同士の会話に耳を傾け、部分的に単語が分かると、つい話したくなって、いつのまにか片言の日本語で日本人と会話をしていた。嬉しくて夢中になっていた。
 「おまえ、日本語ができるなら、日本へ留学するのをやめて、とっとと中国へ帰れ」
 低く抑えられた上海語が聞こえてきた。声のする方に顔を向けると、恐ろしい顔をした王さんが立っていた。彼女の目玉はまるで螺貝のように大きくなっていた。白目が充血して、血管が破れそうに真っ赤だった。真中の黒い瞳から嫉妬の剣が溢れて、私を刺してくるようだ。
 「恐い!」
 私は両手で目を塞いで、叫びたかったが、声が出なかった。

 上海を出発してから3日目の朝、ようやく神戸港に着いた。青空に雲一つない好天だった。空まで高く聳えた紅白の神戸ポートアイランドタワーと、低くて緩やかなウエーブを広げた国際展示場のアイボリー色の屋根との対照的な画面に圧倒され、私は思わず深呼吸をした。芳しい何かの香りが鼻から胸へすっと入り込んできた。見回すと、目の前に鮮やかな濃い緑色の芝生が真新しい絨毯のように一面に敷かれ、優しい白っぽい朝の光に包まれて、私と同じように深呼吸をしているかのように見えた。「ああ、嬉しい」と私は思わず、声に出した。その風景は、私を少なからず慰めてくれた。

 三宮駅で、私は安い在来線に乗りたいと言ったが、王さんは早く東京に着いてお金を稼ぎたいと、断固として反対した。外貨制限がとても厳しく、上海で両替した時はお小遣いとして1万円しか両替ができなかった。私達は東京の住所が記載してある学生証明書と神戸行きの乗船切符を提出し、やっと2万円までの両替が出来た。新幹線を使うと両替した現金はほとんどなくなるということを、彼女もよく分かっているはずだ。しかし、彼女のつり上がった目と相変わらず怒りに満ちた顔を見て、私は彼女に従い、高い新幹線に乗らざるを得なかった。柔らかい新幹線の椅子に座って、私の身体は逆に硬く重くなってきて、心の奥に再び黒い怖い雲がかかってきた。東京駅に着くと、彼女は私に荷物を見ているように言いつけて、さっさと改札口へ迎えに来る叔父を探しに行き、間もなく2人で帰ってきた。
 「あなたは日本語ができるんだから、叔父に頼まないで、自分で仕事を探しなさい。アパートも私一人で広々と暮らしたいから、自分で部屋を探しなさいよ」
 彼女はふふんと冷笑しながら、一語一語、上海語で憎たらしく言った。頭の中が真っ白になって、あまりの衝撃で、眼球までが飛び出しそうだった。手足まで瞬間凍結されてしまったように動けなくなった。
 「裏切られた‥‥」
 彼女は片手でトランクを引っ張って、片手で無理やり叔父さんの手を引っ張り、振り返りもせず、改札口の方へずんずん歩いて行った。叔父さんは後ろめたいような表情で一瞬私を見たが、そのまま彼女について歩いて行った。2人の姿が人込みの中に消えた途端、私は気が抜けて、骨が溶けてしまったかのように、駅のベンチに倒れてしまった。涙が滝のように流れて、時間が止ってしまったかのようだった。

 「どうしたの?」
 涙でびしょ濡れになったシルクのワンピースが、体に磁石のように張り付いた私を見て、2人の青年が優しい声を掛けてくれた。目をあけると、あたりはもう暗くなっていた。
 「捨てられた。お金がない。泊まる所もない。食べ物もない」と私は必死に片言の日本語の単語を思い出して説明した。彼らはすぐ公衆電話を探しに行った。
 「中国大使館は六本木にあるから、一緒に連れて行ってあげるよ。大使館なら、助けてくれるから、心配しなくていいよ」と慰めてくれた。

 私は上海から4つ大きい荷物を持ってきた。1つは、出発1週間前に親が買ってくれた、キャスターが4つも付いた赤のトランクである。中には保証人になって頂いた水野さんや、お世話になる王さんの叔父さん等への貴重なお土産がいっぱい詰まっている。他の荷物は3つの段ボール箱に詰めた。日本語学校1年、修士と博士課程2年ずつ、合計5年分の本と勉強用具、寝具及び四季の服などをぱんぱんに詰めたので、太い麻の縄でがっちり梱包してあった。彼らは私の大きい段ボール箱とトランクを引っ張りながら、道を案内してくれた。私は2つの段ボール箱と手荷物を引きずって2人の後を必死に付いて歩いた。

 六本木で降ると駅から道を尋ねながら歩いた。その時、私はキャリーカートさえ持っていなかったので、長い道中で引きずられた重い段ボール箱の底が破れ始めた。破れたところから、私の一番大事な本がこぼれ落ちた。最初は一生懸命に拾っていたが、しばらくすると他の勉強用具や洋服やお土産など、次から次へとボロボロ落ちはじめた。何十回も拾っているうちに、2人の青年との距離がどんどん離れてしまった。仕方なく目をつぶって、拾うのを止めた。やっと中国大使館に辿り着き、インターホンを押すと、中の人はドアも開けずに、事情を聞いた。「ここは大使館だから、私費留学生には一切関係ない。広尾にある中国領事館へ行きなさい」とインターホン越しに冷たく言われ、インターホンはあっさり切られてしまった。私たちは再び六本木駅へ戻るしかなかった。

 戻る道中で歩行者に踏まれ、黒い足跡をつけられて散らばった私の荷物を見て、自分の心が踏みにじられたような切なさで、涙がまた溢れて、目から頬へ、頬から首へ、首から胸へとこぼれていく。照明で昼間のように明るく照らされた六本木では、恥ずかしくてたまらなかったが、止める力がなかった。頭を低くしてトボトボついて歩くしかなかった。六本木から再び地下鉄に乗って広尾に着いた。広尾駅からまた道を尋ねながら、荷物を引っ張りやっと中国領事館へ辿り着いた。

 私は守衛に事情を説明した。守衛は王さんのように吊り上げた目で2人の青年を見た。

 「ここは中国の領事館だから、中国人は入れるが、日本人は入れないぞ」
 「この2人は私をここまで案内してくれて、私の荷物をずっと運んでくれて、私を助けてくれた日本人で、領事館に泊まるつもりは一切ありません。泊まるのは私だけです」
 「前払いで一泊2600円かかるが、あなたは払えるのか」
 「とりあえず、今晩は泊まらせてください」

 私がお金を払って、宿泊の登録を済ませると、2人の青年はやっとほっとしたようで、ハンカチを出して、顔中の汗を拭いた。ここで、親切な2人の青年と別れなければならなかった。

 「どうも有難うございました。とても助かりました。お名前とご連絡先を教えて下さい。お礼をしたいので」
 「いや、大した事じゃないから、お礼なんかいいですよ」
 「いや、お願いですから、教えて下さい」
 「私たちは日本体育大学の学生です。また何か困ったことがあったら、連絡して下さい」

 2人の学生はそれぞれの名前と電話番号を書き残して、駅に向かって歩き出した。「頑張ってくださいね」と、彼らは見送る私の方を振り向いて、手を振りながら、優しい声で励ましてくれた。その声はずっと私の耳に響いて、私の体を優しく包んでくれた。日本人って、なんて優しいのだろう。「早く中へ入って。ゲートを閉めるよ」という怒鳴り声で、私は夢の中から呼び戻された。体が震えて、真夏なのに、凍ったように動けなかった。
 「今、私はどこにいるのだろう?」
 私の荷物が邪魔でゲートを閉められないので、守衛は待ち切れずに怒鳴っていた。私はすぐ荷物を移動したが、守衛は鼓膜が破れそうな音でゲートを閉めた。私は部屋の鍵をもらって、4回に分けて荷物を引きずって、部屋に入れた。

 日本人青年たちの行動と、この中国人守衛の行動を見て、私は今まで中国で受けた教育を疑い始めた。赤の他人で、中国では「日本鬼子」と教えられた日本人の2人は、一円も要求せず、東京駅からここまで荷物を運んでくれた。それなのに、目の前のこの同じ国籍の、中国では尊敬されるべきと教えられていた共産党員が(中国では共産党員しか海外の大使館や領事館で働けない)、私一人で4回もゲートから部屋へ運んでいるのを見て見ぬ振りしているのは、何だか理解に苦しむのだ。 (続く
(2012年4月掲載)

【目次】
>> 心からの感謝状 (1)

>> 心からの感謝状 (2)
>> 心からの感謝状 (3)
>> 心からの感謝状 (4)
>> 心からの感謝状 (5)

【編注】
筆者の周さんは、親切にしてくれた2人の日本人学生(ともに男性)を捜しています。1986年当時、学生の1人は「日本体育大学の鈴木さん」だったというのが唯一の手掛かりです。2人は現在、40歳代ではないかと思われます。ご存じの方はご連絡くださいませんか。連絡先は、「北嶋千鶴子の日本語教室」(tel/fax. o42-422-5219、info@japanese-nihongo.com)です。