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福田真也さん

Nori SEKI さん

アメリカでの生活


by Nori SEKI (米国)

Q:どうしてアメリカで暮らすようになったのですか。

 実は私の前の妻インゲ・デイートリッヒはドイツ人で、私が大学生のときに東京で知り合いました。何年か後に再び彼女とめぐり合い、彼女と結婚しようと思って家族に紹介したところ、大反対されてしまったのです。母に「結婚するなら水戸を出て行け」とまで言われてしまいました。当時、金髪の彼女はとても目立つ存在だったので、古い旅館でうるさい親戚もいたので私の結婚は到底受け入れられることではなかったのです。

Q:ドイツではなくどうしてアメリカに来られたのですか。

 彼女はドイツ人といっても幼いころにアメリカに移住したので、アメリカで育っていたし、彼女の家族はアメリカに住んでいました。彼女の助けもあって、アメリカで暮らし始めたわけですが、アメリカの生活がすっかり気に入ってしまい今に至ったのです。

Q:日本に帰ろうという気持ちは全然なかったのですか。

 ええ、私の実の父は私が2歳のときに亡くなり、私は叔父の家で育ちました。私が中学生のときに母が旅館の息子の父と再婚して私はその家に引き取られたのです。そんなわけで私を認めてくれる人がほとんど周りにはいませんでした。何かあると直ぐに「何様のつもりだ」と言われ、不器用でのろまだと評価されていました。ところがアメリカではよくほめられました。「すごいね」「「すばらしいよ」「よくできた」「がんばっているね」などなど。ほめられることに慣れていない私にとって、それらの言葉が心地よく沁み込みました。

Q:関さんにとってアメリカの生活が居心地がよかったのですね。

 そうです。実家では本当に息が詰まるような生活をしていましたから、アメリカに来て開放された気分になりました。妻の家族も本当によくしてくれましたし…。

Q:仕事はどうでしたか。

 いろいろなことをしましたよ。日通やJalパックでも働きました。妻も働いていましたし、私の給料はそっくり貯金できました。その後ACトランジットなる市バスで3年間運転手として働きました。母は「大学まで出たのに何もバスの運転手にならなくたって」と嘆きましたが、私は気にしませんでした。1ドル250円の時代に2万ドルぐらい稼げたので生活は楽でしたし、アパートも買えたし、家も買うことができました。この家を買うときに妻の両親が頭金を出してくれたことを大変感謝しています。

Q:ところでヒッピー生活をなさっていたとうかがったのですが、その辺の事情についてお話願いませんでしょうか。

 実は景気がいい時期だったので2倍に売れて、当時1千万円ほどのお金が手に入りました。そこでメンドシーノカウンテイ(郡)のユカイヤ(Ukiah) なる町、人口は当時11000人位の町から離れて約30キロ北に行くレッドウッドヴァレイに7.5エーカーの土地を買って、自分で家を建てました。結構大きい家を造りましたが、ツーバイフォーですから、素人にも造ることができたのです。31歳で退職して、自給自足生活を始めました。その村には住民は350人ほどしかいませんでした。本当に自然の中で6年間暮らしました。

Q:ではなぜその生活を捨てて元の生活に戻られたのでしょうか。

 娘のハルことを考えたからです。ヒッピー生活を送っている間に娘が生まれたのです。私たちは自然の中での生活がとても気に入っていましたが、娘をその生活に巻き込むことはできません。教育も受けさせなければなりませんから、お金が必要なりました。そのとき私は36歳になっていたので果たして仕事に就けるか心配でしたが、幸いにもスクールバスのパート運転手として採用されました。しかし仕事が回ってこないのです。運転手は15人ほどいましたがほとんどが白人か少しインディアンや他の人種の血が混じっている人たちで日本人は私一人でした。働かせてもらえませんから、半年も収入がありませんでした。

Q:それは困りましたね。

 ええ、それでサンフランシスコ連邦裁判所に人種差別だと訴えました。弁護士は私の妻でした。妻は以前から弁護士になるための勉強を続けていて、当時弁護士になったばかりでした。弁護士になったからといって仕事が直ぐにあるわけではありません。それに妻は貧しい人たちのために働きたいと考えていました。結局、妻の最初の仕事が私の起こした裁判でした。1年半かかって人種差別だという判決がでました。働けなかった間の保証金ももらいました。運転手たちの半数は私に味方してくれましたが、半数は反感を持ちました。なにしろ彼らの上司をやっつけてしまったのですから…。意地でもその会社を辞めたくなかったので6ヶ月ぐらいは頑張りましたが、結局辞めてしまいました。

Q:それからどうなさいましたか。

 移動図書館の運転手として雇われました。メリーさんという司書と一緒にメンドシーノの田舎をまわりました。交通の不便な僻地やインデアン居住地区、刑務所風光明媚な北カリフォルニアの海岸線、ハイウエイ1号線を行ったり来たりして回っていきました。当時はインターネットなどもない時代ですから、みんなが待っていてくれましたし、いろいろな地域を回るのは楽しかったです。しかし私は正規社員ではありません。パートでしたから、将来のことを考えて、大学で不動産仲介の資格を取ることにしました。半年勉強して試験を受けて2度目に合格したときはうれしかったです。運転手をしながら売買をしていましたが、段々不動産の仕事が忙しくなってきて、迷惑もかけるので思い切って辞めて、Century21という不動産会社に勤めました。給料は勿論歩合制です。

Q:日本の不動産会社との違いはありましたか。

 日本と違ってアメリカは資格がない人が物件を紹介することはできません。ですから、受付の女性以外全員が資格者でした。受付は物件に関して何も言うことができません。価格も場所も全てです。アメリカ人は契約を尊重しますから、仕事はやりやすかったと思います。民族の違いも経験しました。いい悪いのということでなく長い伝統の違いがあることを感じました。

Q:お仕事は順調だったのですね。

 不動産の仕事は大変うまくいきました。日本人だということでイタリア系アメリカ人にとても良くしてもらいました。彼は子供のとき日本人に親切にしてもらったことをいつまでも恩義に感じていたのです。そんなときまじめで一生懸命働き現地の人々に尊敬されていた日系人の先達が大勢いたことに感謝し日本人であることを誇らしく思ったものです。

Q:現在はどのような生活をなさっていらっしゃいますか。

 現在は2度目の妻と(最初の妻は亡くなってしまいましたので)妻との間にできた子供レイナと3人でケアホームを経営しながら暮らしています。年に1回ハワイで2週間過ごすのが私の休暇です。24時間休みなく働いていますが、好きな仕事なのでストレスを感じることはありません。

Q:アメリカでの生活を振り返ってどんなことを感じていらっしゃいますか。

 私は大変運がよかったと思っています。最初の結婚も2度目の結婚も、2人の妻の協力のおかげもあって今の自分があると考えています。また、狭い日本人だけの世界に留まらず現地の人との交際を深めたことが人生を更に豊かにさせてくれたと思います。

Q:これからどんなことがしたいですか。

 サクラメントとハワイ、それから日本に長期滞在型の宿泊施設のネットワークを作りたいです。特に日本には旅行者のための安い施設が少ないので、使用しなくなった施設を活用することで旅行者にも所有者にもメリットがあるネットワークができると考えています。
(2010年11月)