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国際結婚 そして 日本語教師(1)


by ハッチンソン好江(日本

 私の夫はイギリス人です。初めて出会った時、彼はほとんど日本語が話せませんでしたし、私の英語のレベルも低いものでした。ある日、偶然が重なって二人きりでデートのようなものになってしまいました。お互いの語学力が低かったので、本当に簡単な事しか話せませんでした。ですから、今思えば失礼で非常に個人的なことも聞いてしまいました。家族の事、年齢の事、独身かどうか、ましてやガールフレンドがいるのかどうかなども聞いてしまったのです。彼は歌舞伎や浮世絵など日本の事に大変興味がありましたし、反対に私は欧米の事が知りたかったので交際が始まったのも自然な事だったと思います。言葉も文化も生活習慣も何もかも違うのになぜか一緒に居て心が安らぐのを感じました。私達はそれから一年後には結婚していました。

 彼とのお付き合いを始めてしばらくして、両親と姉に彼の写真を見せました。髪ももじゃもじゃ、無精髭も生えているその写真を見て、「何だこれは。髪ももじゃもじゃで! なんだか日本人離れしているみたいだな」と言うのが父の感想でした。

 その年の夏、彼を私の実家に連れて行きました。彼はまだ日本語は上手にできませんでしたし、私の両親は英語が全然できませんでした。それで彼は、「お嬢さんをください」と言うことだけを一生懸命暗記して行きました。

 父はテレビで高校野球を見ていました。私達が訪れると急にボリュームを上げて聞く耳をもたないと言うような態度を取りました。少なくとも私にはそう思えたのです。それでも彼は髭もきちんと剃って、身だしなみも整え、礼儀正しく接したので自分に対して敬意を表してくれたのだと父も思ったのだと思います。彼は何とか「お嬢さんをください」と言いましたが、正座もしないであぐらをかいたままだったのが外国人らしいなと私は思いました。父は戦争に行っている世代なので敵国であるイギリス人だということが気に入らなかったのかも知れませんし、当時の私の田舎では国際結婚はおろか外国人の姿さえ見ないような小さな町でしたから、直ぐに返事をするのにためらいがあったのは私も理解できます。世のほとんどの父親がそうであるように相手が誰であっても気に入らなかったのかも知れません。

 私は「三人で話し合ってね」と言い残し彼と一緒に散歩に出ることにしました。しばらくして家に帰ると母が彼の為に縫っておいてくれた浴衣を差し出しました。「この浴衣をあげるという事は娘をあげるということだけどそれでもいいのね。と、お前の姉さんにも念を押されたけど」。

 私達の結婚式は彼の希望もあって、私は打ち掛け、彼は羽織、袴で神前結婚で行いました。当日は、彼は足袋がなかなか履けずに困ったそうです。今では、趣味のマラソンの練習に五本指の靴下を好んで履くようになったのですが。結婚の誓いの言葉はあらかじめひらがなで読み仮名がふってあるものをもらっておいたので彼は何度も練習し読めるようにしておいたそうです。披露宴では英語の堪能な私の同僚に通訳兼司会をお願いしました。夫の外国人の友人も母語の英語と慣れない日本語でスピーチをしてくれ、二つの言葉が飛び交う中、とても楽しく素敵な披露宴になりました。

国際結婚
【写真はハッチンソン好江さんの結婚式 禁無断転載】

 そのスピーチの中の一文「one and one equals more than two」( 1+1=2 以上のものである)通り、結婚して32年目にして今振り返ってみると、私達は一人の時よりお互いを慈しみ、理解する事により、2倍以上の喜びやいろいろな経験をし、結婚した事により、世界観が広がったような気がします。

 例えば、前述した、夫の興味のある歌舞伎や浮世絵に関しては、私は日本人でありながらそれらは私の関心とは遠いところにありました。しかし、夫に誘われ、一緒に何度か劇場や浮世絵展にも行き、そのおもしろさが少しはわかってきたような気がします。独身時代には行ったこともなかった相撲も見に行き楽しみました。

 また学生時代は、スポーツはそれほど得意な分野とは言えなかったのですが、夫の助言で一緒に走り出してから興味を持ち、ホノルルマラソンを完走する事もでき、富士山にも頂上まで登り、水泳は毎回 1km は泳ぐようになりました。加えて、エアロビックスも私の趣味の一つになったのです。

 二人で旅行に行く事もよくあり、今までに約30カ国は一緒に旅しています。週末によく行く喫茶店では決まって窓際のカウンターの席に並んで座り、外の道行く人々を眺めながらおしゃべりは尽きません。

 ところで、話は前後しますが、結婚式の次の日に私は独身時代に住んでいた世田谷区から現住所の登録を抜き、夫の住んでいる杉並区に移そうと二人で杉並区役所に行きました。係りの人によると、夫の住んでいるアパートは法的に登録されていないのでそこに転入はできないと言うのです。家主が税金逃れの対策で敷地建物を登録していなかったのです。家主でなくてもテナントが正式に登録することができると聞き、その場で登録しましたが、その後、区役所と家主の間でどんな話しがあったかはわかりませんが、家主にしてみれば“外人”だけをテナントとして安心していたところ、“とんだ日本人”の入居でとばっちりをくった形になってしまったのかも知れません。私達の結婚生活はこんなすったもんだで始まりました。

 当時は国際結婚で日本国籍を保持する場合は苗字が変えられず、戸籍に結婚した事は記されますが、親から独立した新しい戸籍は作れない時代でした。パスポートには3つの名前、つまり、メイドンネーム(日本名の苗字)、ギブンネーム(下の名前)、夫と同じファミリーネーム(括弧書き)が記され、その為、航空券の発券の混乱や、英国入国時の誤解、などが生じていました。保険証と住民票の苗字が違うという矛盾も起きていたのです。

 申請をすれば親から独立し、夫と同じ英国名の戸籍に変えられると最近になって知り、その手続きを取りました。その経緯は私の場合単純にはいかないものでかなりの時間と多くの書類それに伴う費用がかかりました。今回はそのいきさつは省略しますが、晴れて希望が叶い、木村好江(Hutchinson)からハッチンソン好江になれました。ちなみに、外国人である夫は日本の戸籍には入れないので私の新しい戸籍は私が筆頭主で私一人だけです。これも国際結婚ならではのことです。最近は国際結婚の手続きはもっと簡単になったと聞いています。
(2010年6月)