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日本からの寄贈品と筆者

日本からの寄贈品と筆者(ジョン・万次郎記念館)

曾祖父、ジョン・万次郎


by 野武重忠(日本)

 私は1941年9月、東京の京橋で生まれました。父忠好はジョン・万次郎(注)の孫にあたります。万次郎は生涯に3回結婚しています。当時は恐らく平均寿命が50歳に満たない時代だったと思われますが、とくに万次郎が最初に結婚した「鉄」はわずか24歳で病死しています。私は万次郎の3番目の連れ合いの「志げ」の曾孫です。

(注)中濱(ジョン)万次郎(1827-1898)
土佐中ノ浜浦(現 高知県土佐清水市)の漁師の子。1841年、14歳の時出漁中に遭難して鳥島に漂着。143日の無人島生活の末アメリカの捕鯨船ジョン・ハウランド号に救助されてホノルルに寄港。万次郎以外の乗り組み員4人はホノルルに上陸するが、万次郎はジョン・ハウランド号と共に更に1年半の捕鯨を続け、1843年にマサチューセッツ州ニューベッドフォードに帰港。船長(ウイリアム・ホイットフィールド)の好意でフェアヘイヴンの町のホイットフィールド家に下宿して学校教育を受け、1852年に25歳で帰国。帰国後は幕府で外交書簡の翻訳等に従事、1860年の日米修好通商条約本書の批准交換の為の遣米使節に随行し、再度渡米。明治維新後は開成学校英語教授を務めた。(中濱博著『中濱万次郎』より)

私の初めてのアメリカ旅行

 私が初めてアメリカを訪れたのは1967年(昭和42年)、26歳の時でした。音楽が好きだったこともあって東京芸術大学でトロンボーンを専攻し、1964年(昭和39年)の卒業と同時に読売日本交響楽団に入団、3年後にアメリカ演奏旅行の機会が訪れました。指揮者は、有名なボストン・ポップス・オーケストラの常任指揮者だったアーサー・フィードラー氏で、9月から12月のおよそ3ヵ月間に北米とカナダ2都市を含む42回の演奏会を開催しました。今でこそ海外旅行は珍しくもありませんが、当時は1ドルが360円の時代で、経済的な理由からも外国への旅行者は僅かな数でした。そんな状況下、きつい貧乏旅行でしたが沢山の想い出を残してきました。

 ロサンゼルスを訪れた時のことです。終演後、日系人のグループが歓迎会を開いて下さったのですが、一人の新聞記者が私を訪ねて来ました。彼は、羅府新報(ロサンゼルスに住む日系人の為の新聞)の記者で、楽団員の中に「ジョン・万次郎」の子孫がいるのを聞き付けて、取材にやってきたのでした。この羅府新報の記者に情報を提供したのは、ロサンゼルス郊外に住む私の母の従兄弟だった事が判明し、次の日会うことができました。ちなみに、母とその従兄弟は1923年(大正12年)の関東大震災で離ればなれになり、消息不明の状態でした。そして1993年に、母と従兄弟は70年ぶりに再会を果たしました。これも、曾祖父ジョン・万次郎のお陰だとあらためて感謝をしております。

 尽きないアメリカ演奏旅行の想い出からもうひとつ。
  私が訪れた1960年代のアメリカは人種差別が大変厳しい時代でした。3日に1回は数百キロの移動と云う大変ハードな旅でした。国内線の飛行機は良い方で、ほとんどがバスの旅、真夜中に走り続けるなど当たり前の演奏旅行でした。ですから目的地の手前の国道沿いのモーテルで宿泊などということも何度も経験しました。

 正確な場所は記憶していませんが、中東部の町の国道沿いのモーテルだったと思います。「モーテル」と云っても日本のそれとは大違いで、美しい芝生の庭が有り、こじんまりとした清潔な感じの平家の宿泊施設が立ち並んでいました。何より私達を感激させたのは、プールがあることでした。確か10月半ばで涼しい陽気でしたが長旅のストレスが溜まっていることもあり皆でプールに飛び込み、子供のようにはしゃいでいました。そこへ管理人と思しき老人が現れ、「すぐにプールから上がれ」と言いました。静かな口調だったと記憶しています。
 私達はすぐには事情が飲み込めなかったのですが、言われる通りにプールから上がると、何とその管理人と思しき老人はプールの水を抜き始めたのです。「水が黄色く汚れた」とだんだん激しい口調になりました。当時は黒人でなくても、東洋人でもかなりの差別を受けていたわけです。

 このこととは少し意味が違いますが、当時中高年だったアメリカ人男性の多くが日本人に対して敵対意識を持っているように感じました。ビールを飲みにバーに入り、日本人だと判ると年輩の客に急に絡まれるなどということはよくありました。但しこれは東に行く程強く、カリフォルニア州ではほとんど経験しませんでした。これは勿論大平洋戦争がもたらした悲しい結果です。

 終戦から64年。アメリカとの関係も随分変わりました。地球上では今もどこかで戦争をしています。ジョン・万次郎だったら、現在の世界をみて何とコメントしたでしょう。

日野原重明先生とジョン・万次郎記念館

 ジョン・万次郎がアメリカで住まわせて貰っていたフェアヘイヴンの町のホイットフィールド家は近年誰も住んでおらず、売りに出されていました。それを知った聖路加病院理事長の日野原重明先生は、この家を買い上げてジョン・万次郎記念館にしようと考えました。日野原先生は、現代の若者はジョン・万次郎の生き方を見習うべきであると説き、また、日本のお札の肖像画にもしたいと思っておられる程のジョン・万次郎の熱愛者でいらっしゃいます。

恩人の船長とジョン・万次郎
恩人の船長とジョン・万次郎(ジョン・万次郎記念館)

 先生が色々働きかけて下さったお陰で1億1000万円の寄付が集まり、この程ジョン・万次郎記念館の改築が完了し、今年(2009年)5月7日にフェアヘイヴンの町で引き渡しの記念式典が催されました。フェアヘイヴンの町は、ボストンから南に70キロほど行った小さな港町です。ボストン旅行をされる時には、一度ジョン・万次郎記念館を訪ねてみては如何でしょうか。

 また、ジョン・万次郎の生家がある高知県土佐清水市は地の利の悪い所ですが、足摺岬に立っているジョン・万次郎の銅像も含めて、日本人なら一度は訪れたい場所です。
(August 2009)