日本体験 外国体験 Experiences in different cultures
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陳俊花さん

楽しい経験がいっぱい


by James Harvey(アメリカ)

 私はJETプログラム(The Japan Exchange and Teaching Program)で日本へ来た。1000人ぐらいの人と東京で1週間ほど日本について学んだ後、10人ぐらいの人と島根県に派遣された。初め安来節で有名な安来市の情報高校で英語の教師になった。とても田舎だったけれどあまり驚かなかった。というのも日本へ来る前に6ヵ月間スリランカでホームスティしていたので、それに比べると安来には何でもあった。電気だってついている。だからショックはなかった。

 日本での英語教育は難しいと思った。生徒に英語を話すチャンスが全くないからだ。また教科書に間違いとは言えないけれど不自然な英文が載っていた。それでも私が来る3年ほど前はもっとひどかったけれど、かなり修正されたのだと聞かされた。また文法にこだわり過ぎると思った。私だけじゃなく、アメリカ人にもわからないような文法を質問されたこともたびたびあった。

 アメリカと随分違うと思ったことがある。ある日何か揺れたような気がしたが、それが神戸の地震だった。テレビに漢字が次々と流されていた。日本語ができなかった私は何だか分からなかったので質問すると、亡くなった人の名前だと言われた。びっくりした。アメリカではこのような時に個人の名前が発表されることはない。プライバシーの侵害ではないかと思った。

 またこの地震のときは、アメリカでは家族が大変心配していたらしい。神戸と島根は離れていて何の影響も受けないということがわからなかったのだ。

 日本語は全然勉強しないで日本に来てしまったが、せっかく日本にいるのだから勉強しようと思って国際交流センターに電話して先生を紹介してもらった。その先生が現在妻になっている佳奈だ。日本語能力試験は1年目に4級を取り2年目2級、3年目に1級に合格した。仕事も3年目には英語の先生ではなく、国際交流員として三刀屋町という人口約2万人の小さなところで働いた。まだインターネットが盛んではなかった時代だったので、その町のホームページを作成したり、老人会などでアメリカの老人について講演したりと充実した生活を送っていた。

 日本のお年寄りとアメリカのお年寄りを比べると、日本人のほうが元気がいいと思う。自転車やスクーターで飛び回っているお年寄りが大勢いた。

 日本文化についていうと、妻のお母さんがお茶の先生だったこともあって1年ほど茶道を習った。初めは苦いと思った抹茶も次第においしく感じられ、今では煎茶よりも美味しいと感じられる。また簡単だと思っていたお茶が習えば習うほど奥が深いものだと思うようになった。お茶はまたいつか始めたいと思っている。

 日本滞在中は多くの日本人に親切にしてもらったり、楽しい経験がいっぱいできたり、住みやすかった。しかしたまにひどく疎外感を感じることがあった。ある時スーパーでブロッコリーを買っていたら、幼い女の子が「私たちと同じ物を食べるんだ」と言ったのに対して、お母さんが「同じ人間ですもの」と答えている場面にであった。そのとき社会から受け入れられていないと強く感じた。また松江では前任者のキャンベルさんに似ていますねと言われたが、実際は彼と私は全然似ていなかった。外国人ということだけを見て、私自身を見てくれていないと思った。

 言葉の問題ではカタカナ英語を使いすぎると思った。日本語で写真機という言葉があるのに誰もがカメラと言っている。今では写真機と言う人はほとんどいない。カメラという言葉は誰でも知っているが、わからないような難しい言葉も氾濫している。わざわざ難しくして言っているような気がする。外国語を使ったほうが格好いいと思っているのではないかと思った。

 日本での生活は珍しい経験もできたし、日本語もできるようになったし、有意義な経験だったと思う。特に生涯の伴侶と出会い、日本との縁は切れそうにない。今、シリコンバレーでヤフーのソフトウエアエンジニアとして働いているが、仕事を辞めたら将来は日本に住むことになるような気がしている。
(September 2007)