日本体験 外国体験 Experiences in different cultures
space
| 145 N.S | 戻る back <<
 

私の留学生活 (下)


 N・S (日本)

−ところで帰国してからどうしましたか。
N:しばらく故郷にいて祖母の介護をしていましたが、あっという間に3年も立ってしまいました。祖母が亡くなったので、ちょっと東京の様子をちょっと見てくると言って出てきたんですが、就職して何年も経ってしまいました。

−最初から外資系の会社で働いたんですか。
N:初めはビルの管理会社で働いていたんですが、そこがジャイカ研究所の受付を募集していて青年海外協力隊で派遣される前にその国のことを学ぶじゃないですか。そういう教室をやっているところで図書室もあっていろいろな国の人が日本に招待されていて日本について学ぶんです。泊まるところもあります。そこで働いていたときにハイチに行く機会がありました。知り合いが最初は観光省に勤めていたんですが、ハイチの地震の後はクリントンと一緒に復興事業に携わって仮設住宅を造っていました。私は実際に飛行機から全部がビニールの青いテントのキャンプという景色を見ました。衝撃的でした。彼は政府で働いていたから酷い生活ではなかったですが、普通の人はぐちゃぐちゃの泥の上にテントを建てていて、町から何十キロも離れた何もないような山の中なのにテントで暮らしていました。瓦礫がそのままなので住む土地がなくて山に追いやられている状態でそこにビニールでテントを作って住んでいました。仮設の病院もすごく長い行列ができていました。生活は大変なんですが、人々の笑顔が可愛くて子供も無表情じゃなくて私にも近づいてきたりしました。闇市みたいなところで痩せた土地で作った野菜を売っていたりしているのも見ました。こんなに必死で生きている人たちを初めて見たと思いました。

−そこで2週間何をしていたんですか。
N:何十年もハイチに住んでいる日本人のシスターがいるので私はその人に会いたくて連絡を取っていたんですが、そこが首都からとても遠くて結局会えなかったんです。

−テレビで放送していましたね。
N:そうです。有名な人なんです。その時は私もハイチで何かできるかと思って会いたかったんです。今何もしていないんですが、実は今もハイチを支援する団体に寄付を続けています。一回行ったことによって一生ハイチを応援すると思います。その時出逢ったメイドの女の子が2週間しか滞在しなかったのに今でもメールをくれるんです。その子は先生をしていたんです。

−今は先生になったということですか。
N:その時も先生だったんですが、先生じゃご飯が食べられないからメイドもしていたんです。普通の学校に勤めているですが、メイドもしてお金を集めて学校に行けないような子ども達を集めて寺子屋のようなものをやっていたんです。

−すごい人ですね。
N:とてもアグレッシブでパワフルなんです。

−まだ若いんでしょう。
N:28か29歳ですね。当時23か24歳ぐらいでした。休む間もなく働いていて、彼女だけでなくあの国の人はみんなパワーがあるように見えました。

−ハイチの人とは英語で話したんですか。
N:そうですね。教育を受けた人たちは英語が話せますから。

−メイドさんとも英語で話したんですか。
N:その子は英語が話せなかったから身振り手振りで話しました。

−メールはどうやって。
N:単語だけだから意味が分からないところもあるんだけど、メールをもらうと嬉しいのでこういうことを言っているのかなと考えて返事を出すんです。

−英語を学ぶチャンスもなんでしょうね。
N:多分ないと思います。ハイチ語を話しているんですが、元はアフリカから来た人たちだからアフリカの言葉に似ています。フランスに占領されていたからフランス語を話す人が多いです。公用語がフランス語です。

−じゃ、小学校の先生もフランス語はできるんですね。
N:ええ。一度彼女と一緒にいたときドアがオートロックで鍵がかかってしまって2人が閉め出されたことがあったんです。その家が建っている場所は門があって外部の人は入って来られないので危険はないんですが、どうしようかとなったんです。その時に「じゃ、踊ろう」と言われて2人で音楽をかけて踊ったんです。陽気ないい人達が多いんですよ。

−暖かい地域の人たちの方が楽天的なんでしょうか。
N:私、すごく考えて行ったんですよ。地震の直後だから、すごく暗いだろうし、私どんな顔していったらいいのかとかちゃんとした服を着ていったら悪いのかななどと色々考えて行ったんです。実際はみんなちゃんとした格好をしていて、それも明るい色の服ばかりでした。ハイヒールの人たくさんいて、こんな感じなんだ、いいところだなと思いました。復興していればいいんですが、今もそのままだと思います。

−ハイチの人はたくましいでしょう。
N:とっても。お金を集めて誰かがあの国をよくしてくれたらいいんだけど。ハイチの後ドミニカ共和国に遊びに行きました。ハイチでは地震の後コレラが流行していました。それもあってドミニカに行きました。ドミニカは観光地でアメリカ人も多かったしビーチも綺麗なリゾートでした。ドミニカには1週間ぐらいいました。

−印象深いことがありましたか。
N:どこでもそうだと思いますが、物乞いの人が多くて、大人も騙そうとする人がいて、タクシー代をごまかしたり、最初に言っていた値段と違ったり…。

−私も経験がありますよ。特にタクシーはいろいろありますからね。ドミニカは問題はあったけど観光だったから楽しかったんですね。
N:ええ、ホテル代に食べたり飲んだり全部が付いているんですがそれでも8千円ぐらいでした。

−それは安いですね。
N:入っているレストランが5~6軒あるんですが、どこで食べても何回食べてもいいんです。ビーチでお酒を飲んでもそれも含まれています。それにビーチがとても綺麗でした。

−プライベートビーチなんでしょう。
N:そうです。ドミニカはとてもよかったです。
(了)

(2015年6月30日掲載)