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漢字と友達になる


 ラモーナ・ツァラヌ (ルーマニア)

ランディカ・ジャヤミニ
ラモーナ・ツァラヌさん

  アジア文化圏のいくつかの国の人以外、海外で日本語を勉強している人に日本語のどこが難しいかと聞くと、「漢字です」という答えが出る確率が最も高いです。漢字に慣れていない人たちには、一見したところでは字はどれもこれも同じように見えてしまいます。ゼロから日本語の勉強をはじめる場合、部首や画数で漢字を覚えるにはかなり時間がかかります。

 自分は日本語を専攻にしようという目標で大学の外国語学部に入って、日本語の勉強をゼロから始めました。日本語をはじめ、言語学、文学や日本史などの授業があり、宿題や読書課題はけっこう多かったですが、それとはまた別に漢字の練習がありました。毎日練習しないと覚えられないよ、と先生方が仰っていましたが、早い段階からまさにその通りだと自分自身で気付きました。結果、毎日一時間二時間程度その日に新しく学んだ漢字を何回も何回も自分の手で書くことになりました。

 この作業を繰り返すなかで、字一つ一つの形を区別するようになって、授業の時に渡された文章やインターネットなどで読んでみた記事の中で見覚えのある字を見つけたおりには、最大の喜びを感じました。一方、しばらく漢字の練習を怠けてしまって、勉強したはずの字の読み方がどうしても思い出せないということもありました。やはり、充分時間をかけて一緒に遊ばないと漢字に怒られるよね、というようなことも考えました。いつの間にか、漢字は命のあるようなものになっていました。それで毎日の練習時間は、漢字と友達になる時間になりました。

 少しずつ漢字が使えるようになると、この作業が一層楽しくなりました。遠い日本との間の距離が少しでも縮まるように、インターネットで映像、写真やブログ記事などを検索したりしました。日本で今どんな歌が流行っているか、みんなはどのようなテレビ番組やアニメなどを見ているか、何となく知ることができました。その中で一番嬉しい発見は音楽でした。YouTubeで自分の好みだったロック音楽を見つけ、好きな歌の歌詞を手で写したり、翻訳したりしましたので、結局漢字を書く練習の時間はどうやら音楽鑑賞の時間になってしまいました。このような作業をしながらたくさん勉強ができて最高に楽しかったですが、その全てが後で意外な形で役に立つことになるとは思いもしませんでした。

 卒業後、ブカレスト日本語学校という所で日本語を教えることになりました。生徒たちは高校生から仕事をしている大人の方まで、年齢の幅が広いです。生徒は放課後、またはその日の仕事が終わった後に学校に通ってきます。つまり、日本語を趣味として勉強しているわけです。趣味なので、できるだけ楽しく勉強させたいし、生徒それぞれが必要としている日本語を身につけさせたらいいと思っていました。基本的な勉強は共通でも、日本の若者の文化に興味を持っている高校生と、ビジネス会話能力を身につけたいというサラリーマンが要求している日本語知識は異なるので、生徒それぞれに合った授業にすればよいと思うようになりました。学校や大学の場合と違って、外国語学校ではカリキュラムをある範囲で工夫できるのが良い点です。

 日本語の発音は易しく、文法の規則も比較的に覚えやすくて、勉強は難しくない、と生徒たちが言っていました。問題は漢字でした。大人の方はだいたい教えたとおり、重要な漢字を書く練習をしてきてくれました。みんなの努力をほめようとしたら、「いや、先生、仕事の休憩中に漢字を勉強しました」、または「上司には漢字を勉強しないといけないと言って仕事をさぼりました、アハハハ!」という返事があったりして、鳥肌が立つ時もありました。

 学校の宿題が多いといつも泣きそうに言う高校生には、さすがにその上に無理矢理に漢字の勉強をさせるのは申し訳ないと思って、別のやり方にしてみました。相手の高校生たちはアニメソング、J-POP 、J-ROCKなどという音楽ジャンルに詳しいので、流行っている歌の歌詞をみんなで翻訳しよう、ついでに歌詞に出た新しい漢字を学ぼうという提案に喜んで賛成してくれました。それで、みんなに次回好きな歌詞をインターネットで調べて持ってきてくださいと言ったら、次の授業の時に英単語ばかりの歌詞を持ってくるずる賢い子もいて、結局は先生の好みの歌詞が教材となることが多かったです。その中に例えば、さだまさし氏の『案山子』のような歌もあり、中島みゆきさんの文学的な歌詞もあり、あとは邦ロックの歌でした。とはいっても、うちの教え子たちは素直に渡された歌詞と向き合って、見覚えのある漢字を探すのも、新しい字を学ぶのも楽しそうにやってくれました。

 生徒に漢字を覚えさせるには歌詞を教材に使うこと以外に、もう一つ便利な方法として四字熟語を使いました。ある時から、授業の最後の10分間で一つの四字熟語の説明をするのが習慣となりました。初級向けは「一石二鳥」や「五分五分」などを、中級や上級の生徒たちには「五里霧中」や「唯一無二」などのような言葉を勉強してもらいました。意味豊かな表現で、日本語の四字熟語はおもしろいと生徒が言ってくれて、教える側としてはとても嬉しかったです。

 ちなみに、この仕事をした約2年間の一番幸せな出来事も四字熟語と関係があるのです。一回だけその日の四字熟語を準備するのを忘れてしまい、何とかごまかして授業を終えようとしたら、生徒たち(高校生のグループの方)は帰ろうとしない。「どうかした?」と聞くと、「先生、今日の四字熟語は?」と聞き返されました。「えっ、そんなにやりたいの?」と半信半疑で言ったら、「だって、面白いんです」と彼らが答えたので、驚きました。みんなは本当に熱心で、一刻も早く日本語を身につけたいとしか考えていなかったようで、とても感動しました。即興でいい四字熟語が思い浮かばないかなと思いながら、教え子たちの目を見ていたら、ちょうどいい言葉が浮んできました。「一生懸命」。黒板に書いて、発音を教えました。みんなはこの言葉を前から知っていたのに、字を初めて見たのでした。前から知っていた言葉がやっと書けるようになった彼らの嬉しそうな顔は、今でも教師をしていた頃の一番いい思い出です。
(2014年4月12日掲載)