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韓国で日本語教材を出版(下)


 李致雨 (韓国)

ピラミッド
李致雨さん

−ところで李先生、日本に初めて来たときは留学生だったんですよね。

:ええ。私は日本に23年ぐらいいました。永住権は2006年にもらいました。初めは短期ビザできました。大学を卒業して軍隊に行って会社に1年半ぐらい勤めてから日本に来たんです。日本語学校で3ヶ月研修しました。そのとき既に結婚していて子供もいました。

−それなのに留学したんですか。

:ですから留学ビザがもらえなかったんです。

−働くんじゃないかと疑われたんですね。

:そうです。そして学校の寮に入り、日本語学校で勉強しました。あまりよく教えてくれなかったので直ぐに辞めて、居酒屋で働き始めました。当時、時給1000円ぐらいくれましたから、生活は大丈夫でした。多いときは18万、少なくても16万ぐらいもらえましたから。でも3ヶ月経ってビザが切れてしまったので、一度韓国に帰りました。そして今度は大学院に入学したいと言ってビザを申請しました。大使館の面接を受けたらまた3ヶ月ビザをくれました。

−また働いたんですか。

:ええ、働きながら大学院の入学を目指しました。でもなかなか入れませんでした。どうにか、横浜国立大学の研究生になれました。授業を週20時間以上取らないとビザがもらえないので、先生にお願いしてたくさん授業を受けることにして書類を提出したらビザが出ました。それから留学生として安定した生活ができました。

−研究生は一年間ですね。

:いいえ、二年間でした。それで韓国から家族を呼びました。

−生活は大変だったでしょう。

:でも居酒屋の人が8時間働かなくても8時間分の給料をくれたんです。

−随分親切でしたね。

:そうなんです。その店が閉店になってからはチラシ配りをしました。92年頃、大学の留学生会の関係で通訳の仕事をすることができました。韓国の自動車会社の人がスズキ自動車で3ヶ月研修したんですが、そのときに通訳が必要だったんです。横浜国大の留学生10人ぐらいを集めてイスズの川崎工場に派遣したんです。そこの給料が1日働くと2万円でした。5ヶ月間ぐらい働けたのでとても助かりました。その間に2番目の子が生まれました。

−そのときはどこに住んでいたんですか。

:明大前ですね。家賃は6万ぐらいでしたが、風呂がなかったんです。それで銭湯に行っていました。

−通訳の仕事が終わって93年にはビザが切れましたね。その後どうしたんですか。
:それで日本語の本を出版しようと考えました。でも出版社にコネがなかったので、知り合いを通じて多楽園を紹介してもらいました。またそのとき妻が教会関係の仕事をしていたんですが、その関係者を通じて大使館の文化院への就職ができました。それでビザは大丈夫になりました。公用ビザをもらいましたから。

−そのとき何歳だったんですか。
:31歳ぐらいでした。

−若いですね。出版の話はどうなりましたか。

:日本語能力試験の過去問題集を出しましょうと言われました。当時、過去問題集は日本でしか出版されていませんでしたから。でも出版できるようになるまで随分時間がかかりました。能力試験の著作権は国際交流基金にありました。1年ぐらい後になって半分使っても良いと言われましたが、半分では出版できません。何度か交渉した結果、全部の使用許可が出ました。但し読解で引用された文は事前に著者の許可を取ったら契約してもいいということになりました。著者に手紙、電話、ファックスを使って3ヶ月かけて何とか承諾を取ることができたので交流基金と契約しましたが、1万部以下の出版は無料でした。当時、韓国で1万部なんて売れない時期でしたから結局お金は払いませんでした。

−著者には払わなくてよかったんですか。

:朝日新聞は1つ1万円でした。

−他は。

:他は本を送ってくださいとか言われましたが、お金を取ったのは朝日新聞だけでした。そして92年度と93年度分を「攻略日本語能力試験」というタイトルで韓国で出版したら、良く売れました。当時アルクの本が韓国でよく売れていたんですが、それを超えました。その3倍ぐらい売れました。それで留学した時の借金も払えました。本当に助かりました。仕事は大使館でしていましたし。

−順調でしたね。

:でも過去問題集の出版には問題がありました。試験は毎年行われますから。段々増えていきます。それで97年度までは2年分をまとめて出版していました。古い年度の分を削除して新年度の分を追加して出版していました。その作業がとても大変だったの1年分だけの本を出すことにしたんですが、その本はさっぱり売れませんでした。

−そういうもんなんですか。日本語学習者が減ったんでしょうか。

:いいえ、同じぐらいいました。最初出版したときは独占していましたが、1年分だけを売ったときは東洋文庫など他の出版社も過去問を出していましたから、売れなかったんです。また出版にあたり、著作権の問題でいちいち著者の承諾をもらわなければならなかったんですが、それが大変で、面倒くさくなりました。それで99年に「一冊総まとめ」を予想問題集ということで出しました。在日の韓国人などに手伝ってもらって作りましたが、2003年までよく売れました。

−運もよかったですね。

:過去問は独占の時は売れたけど、只で配られたりしましたし。その後先生とSBS放送局の教材を作ったりしました。

−そうでしたね。

:その後、出版社同士がもめたりして、私も落ち込みました。そのころ留学斡旋もしました。

−ああ、私もその事務所に行きましたね。

:そうでした。そのうち長女が韓国に留学しました。それで娘と一緒にソウルで暮らし始めました。印税は少ないときもありましたがまあまあ生活できました。2009年は翌年から日本語能力試験が改訂されるというので出版社はどこもそれにあった問題集を出そうと躍起になっていました。そこで私は多楽園と12冊分の本を契約しました。先生とも一緒に本を出しましたね。その本はとてもよく売れたんです。2011年3月の地震の前までは良く売れていました。

−本当にあのとき韓国人はみんな帰っちゃいましたものね。

:そうですね。

−今も日本に留学する人が減っていますね。

:ええ、韓国人の親が日本は駄目だと言って子供を行かせないんです。結構韓国内で学生達が溢れているから不景気です。海外へ行けばいいんですが、あまり行かないです。行ける人は金持ちですから、そういう人はあまり日本を選択しないです。ですから、日本語関係の出版は今は無理です。まあまあやっていけているのはJPTぐらいですね。私は2年後にはJLPTの問題集を改訂したいと思っています。

−そうですか。

:また、一緒に本を作りましょう。

−そうですね。今日はありがとうございました。
(了)
(2013年10月30日掲載)