難しい言葉でも困らない
− 連載エッセー「徒然の森」第69回

by 北嶋 千鶴子

 私は日本語教師のせいか、童話の本を読むたびにこんなに難しい言葉で書いていいのかと思っていた。子供の本は易しいと思って読んでみたが、かえって難しかったと外国人が言うのも聞いていた。私たち日本語教師は、優しい文型から難しい文型に移って行く・一度にいろいろ教えない、という原則で日本語を教えている。この方法を使うと言葉を習得しやすいのだ。だからわからない言葉だらけの童話を見て疑問に思ったのだ。ところが、孫娘が言葉を習得する過程を観察して考えが変わってきた。

 こんなことがあった。ある日5歳になったばかりの孫の友達が「そんなこと言ったら承知しないよ」言った。「まあ難しい言葉を使うものだ。多分家族の誰かが使ったのだろう。けんかになるのかなあ」と見ていた。ところが孫は「承知…って何」と尋ねた。その言葉を知らなかったのだ。「許さないってことよ」という答が返ってきた。けんかにもならなかった。

 10日ばかり過ぎたある日、教師仲間に話そうと思ったが、肝心のその言葉が出てこない。そこで孫に「この間遊びに来た友達に教えてもらった言葉はなんだったけ」と聞いた。「ええとね。あ、承知しないだった」と孫は言う。なんと記憶力のいいこと。私は意味を知っていたのに、あとから思い出そうとしてもその言葉を忘れてしまったのだ。

 またこんなこともあった。「透き通っている」という言葉を「水のように向こうが見えるのよ」と説明していたら「透明っていうこと」と聞き返してきた。「えっ、透明って言葉知っているの」「うん」。私は「透明」は難しすぎるのでわざわざ「透き通っている」と言ったのに。何のことはない。難しさの基準を私が決めていたのだ。

 童話の中によく、意味のないリズムだけの言葉が出てくるけれど、それも読んでみれば楽しい。理解できない言葉があってもかまわない。言葉の意味がわからないまま過ぎることもあるだろう。それでちっとも困らないと思うようになった。
(September 15, 2008)