新しい祭りにも地域の伝承を
− 連載エッセー「徒然の森」第53回
by 北嶋 千鶴子

 京都に行ってきた。新幹線のおかげで、最近は無理すれば日帰りもできるけれど、旅のひとときをゆったりと過ごしたかったので市内のホテルに一泊した。インターネット時代だし女の一人旅も珍しくないせいか、ホテルは直ぐに取れた。大学時代、一般の旅館ではなくわざわざユースホステルを選んだのに、一人旅が珍しがられたり訝しがられたりしたのが嘘のようだった。

 京都では葵祭を見てきた。出発点である御所のあたりは大勢の人で混雑していた。日本の民族衣装を着た行列が見られるとあって外国の人も目立った。当時の衣装や持ち物道具、馬に乗ったり牛車に乗ったり様々な風俗が興味深かった。

 1時間ぐらいかけて行列が出発するのを見届けた後、上賀茂神社や下鴨神社を見学した。両神社とも境内に澄み切った水が流れていたのが印象深かった。ここで祭りで重要な役をする斎王が手を洗うのだ。上賀茂神社ではちょうど神事の最中だった。緑ときれいな川そこだけは本当に静謐という雰囲気がぴったりだった。

 子供のころはテレビもなく、祭りは一番の楽しみだった。大人も子供も浮き浮きとその日を待った。祭りは地域ぐるみの催しだったから、大人はその準備で忙しかった。獅子舞や笛や太鼓などは地域に伝承され、男たちはその練習で忙しかった。

 現在は勤め人が多いので、その土地の神社を中心とする祭りはすっかり廃れてしまった。人々は忙しくなり地域の繋がりもうすれた。だから商店街が中心になったり、市町村がボランティアを募ったりして、神事に関係ない新しい形式の祭りが各所で見られるようになってきた。収穫を感謝したりする本来の祭りではなく、よその人たちに見せるための祭り、物を売るための祭りが生まれている。子供たちが喜ぶのだからそれもよしとしなければならないのだろう。

 観光客が集まる有名な祭りは、完全にビジネス化されているところが少なくない。御輿の担ぎ手や山車の引き手が足りなくて、学生アルバイトに頼っているところもあるという。しかしその中でも伝統が継承されている。祭りがなくなるとその伝統も失われることになる。問題があるけれども、いつまでも残してほしいのが祭りである。
(May 15, 2007)