自分の後ろは見えにくい
− 連載エッセー「徒然の森」第46回
by 北嶋 千鶴子

 何かを大勢で見るとき、なるべく大きく広がればみんながよく見える。もし見たいものを中心にして半円を描くように囲めば全員が見えるまずだ。しかし人は近くで見たいと思うのか、だんだん円を狭めて行くものらしい。

 先日、ある会で同じようなことを経験した。みんなが先生のそばに集合したとき、私は一番前にいた。私が下がれば後ろの人がよく見えるだろうと考えて下がり、一人分の空間を作った。しばらくはそこから先生の手元がよく見えた。しかしだんだん横の人が空いた場所にずれ込んできて、20分もしないうちに私が作った空間はまったくなくなってしまった。

 自分の横が空いていれば無意識にそちらに寄ってしまうのは自然なことだ。後ろまで気が回らないと非難することはできない。一言「見えないのでちょっと空けてください」と言えば済んだことだ。だが言うタイミングが難しいし、ちょっと気を遣ってくれたらという気持ちになってしまうのも自然なことかもしれない。

 些細なことからいろいろ考えさせられた。
 自分の後ろは見えにくい。時々前の人がドアを離したためにぶつかりそうになったという経験は誰にもあるだろう。空けたドアを次の人のために支える人は、後ろも見えている人にちがいない。
  ドアのことは比較的欧米人の方が支えていてくれたような気がする。しかしこれは後ろに気が回るかどうかと言うより、マナーとして小さいときから身に付いているのではないかと思う。
(October 15, 2006)