「ながら族」の曲がり角
− 連載エッセー「徒然の森」第45回
by 北嶋 千鶴子

 「ながら族」という言葉が流行ったのはいつころだったろうか。中学生のころ、わが家にテレビがやって来た。そのときから私は「ながら族」になった。生まれはともかく、育ちは生粋のテレビっ子なのだ。遅くまでテレビを見ていても、勉強しながらみているのだから親は文句を言わなかった。親はむしろ、よく勉強する子だと感心していたかもしれない。

 わが家は一軒家だったが、二階の部屋を学生さんに貸していた。テレビがまだ珍しい時代だったので、彼らはよくわが家の茶の間に来て一緒にテレビを見ていた。だからテレビを見ているのか勉強しているのか、よく分からない私の姿を頻繁に目にしていた。

 「あれで本当に勉強しているのかなあ」「きっと受験に失敗するぞ」。そんなことを言われていたらしい。私は彼らと同じ大学に憧れていて、志望校はそこ1本に絞っていたが、絶対に無理だと思われていた。

 運良くその大学に入れた私は、学生生活でテレビよりも面白いことを経験することになる。テレビを見る機会が減るに連れて勉強しなくなり、成績は低迷したまま4年間が過ぎた。

 現在はもちろん連日、テレビをつけながら日本語教材を作っている。しかし最近テレビ番組がちっとも頭に入っらなくなってきた。外国のミステリーなどは、途中で筋が分からなくなってしまうことがあるのだ。そろそろ「ながら族」返上の時を迎えているのかもしれない。

 「ながら族」を止めて、集中したらもっといい仕事ができたのではないかと言われることもある。しかし反対に、仕事に費やす時間がもっと減るような気がする。「ながら族」を止めたら、私が私らしくなくなってしまうような気がしている。
(September 15, 2006)