引っ越しの効用
− 連載エッセー「徒然の森」第38回
by 北嶋 千鶴子

菊 夫が会社を辞めるのに合わせて、最寄り駅の近くに小さな家を建てて引っ越した。新しい家は夫婦二人だけが生活できる間取りにした。三階建てだが、各階に一部屋しかない。一階が夫婦の仕事部屋、二階に台所と居間、三階が寝室。子どもの居場所を造らなかった。自然、子供はアパートを借りて出ていった。一緒に生活していれば、いくら大きくなっても子供にはあれこれ小言を言いたくなるものだが、離れていれば言いようがない。精神衛生上すっきりして、子供のことでイライラしなくなったのは間違いない。

 逆に子供たちがときおり電話をかけてくれたり訪ねて来たりする。食事にありつきたいなどいろんな口実を設けているけれど、おそらく親の生活を気遣っているのだと思う。子供のうれしい贈り物なのだ。そう感じられることが、引っ越しの最大の効用かもしれない。

 時間を節約できたことも大きい。夫婦二人だと家事に費やす時間はかなり減る。家が狭いので掃除も簡単だ。二人なら急に外食にすることもできるし、若いときと違って簡単な食事を好むので調理に手間がかからない。それに夫も折にふれて食事の用意をしてくれる。駅まで徒歩2分なので買い物もすぐできる。さすがに駅の近くなので電車の騒音がうるさく感じられるときもあるけれど、年を取ったら買い物に便利なところに住むに限ると実感している。おかげで仕事に割ける時間も増えた。

 いいことずくめのようだが、縦長の家なので、絶えず階段を上り下りしなければならない。まだ足腰がしっかりしているので、いまは苦にはならない。階段の上り下りはかえって運動になっていいぐらいの気持ちでいるが、年取ったら住み続けることは出来ないだろう。

 また二人きりの生活は、夫婦げんかの後始末が難しい。二人がそれぞれ別の仕事をしていると言っても、すぐに目に付くところにいるから尾を引きやすい。そんなとき子どもや孫がいるとほっとする。ちょっと休戦という具合だ。そういえばペットを夫婦の緩衝材にしている友人もいる。

 ここに住んで一年。徐々に生活のリズムができはじめてきたが、まだ上手に夫婦げんかと付き合えないでいる。
(February 15, 2006)