アフガニスタンから来た子ども
− 連載エッセー「徒然の森」第18回
by 北嶋 千鶴子

 最近のテレビや新聞はイラクのニュースで持ちきりで、アフガニスタンのことはすっかり忘れさられてしまったようだ。けれどもアフガニスタンは今でも混乱の中にあり、多くの子供たちが困難な生活を強いられている。

 私がアフガニスタンからやって来たフルグラ君と知り合ったのはもう10年以上も前のことだ。彼は日本に来て間がなく、日本語を教えてくれるボランティアを探していた。私を含めて3人が彼を教えることになった。

 彼は7歳のときソ連の侵攻による戦争で母と祖父を一度に失った。父は日本に留学中で帰国できなくなり音信不通になった。日常的に人が殺される毎日。そんな生活の後、転機が訪れた。14歳での徴兵である。戦う相手はゲリラ、それは前の政府の人たち、つまりお父さんの友達だった。彼は戦いたくなかった。何とか日本にいる父に会いたくて、イラクのバクダッドまで地雷を避けながら2000キロを歩いて逃げてきた。そして乞食をしながら生き伸びた。

 その間の日本に到着するまでの困難は、脱出劇を書いた本「アフガニスタンの星を見上げて」(小学館)が出ているのでそれを読んで欲しい。

 彼は本来なら中学校に通うべきところだったが、日本語がまったく分からないため小学校に通わせられていた。体が大きく、敬虔なイスラム教徒であったこと、それにアフガニスタンと日本との習慣の違いなどで数々の問題が起きていた。しかしフルグラ君に非があるわけではなかった。

 例えば、彼は親愛の情を表そうと思って「おはよう」と言って級友の体に触れる。アフガン育ちの彼にとって自然なしぐさでも、日本人の子供には気持ち悪い。給食もイスラムで禁止されている物は食べられない。担任が彼のことをどう説明していたか分からないが、小学6年生にとって14歳の彼は大人に見えて仲間として受け入れるのは難しかったと思う。それに何より言葉が分からないからお互いの気持ちを伝えることができない。

 彼はなかなか友達ができなかった。私たちはスムーズに学校生活にとけ込めるように、何かスポーツをしたらと考えていた。彼は背が高かったのでバスケットでもしたらみんなに頼りにされて学校生活が楽しくなるのではないかと思ったが、父親は何よりも勉強だけをさせて欲しいと主張して譲らなかった。彼の希望も「アフガニスタンで医者になって多くの人を助けたい」というものだった。

 中学校に入ってしばらくして、彼は郊外の町から都心の渋谷へ引っ越して行った。渋谷の学校には外国人がいて、彼のためになると父親が判断したからだと思う。1年ほどしてかなり上手な日本語で、新しい学校が楽しいと彼から便りがあった。私たちはその知らせにほっとした。

それから彼に会ったことはない。ただタレントとしてテレビに出ている彼を見たことがある。何だか何をやるのも恥ずかしそうだった。見ていて心配になってしまうほど、はにかんでいた。それは私の知っていた彼だった。
(07/06/2004)