「いただけない」表現
− 連載エッセー「徒然の森」第17回
by 北嶋 千鶴子

 私が子供のころ、「全然」という言葉は「全然面白くない」などというように、否定の言葉と一緒に使われていた。「全然」が肯定文で使われていたのを初めて聞いたときは違和感を覚えた。それから長い年月が流れ、「全然いいよ」などいう表現にもすっかり慣れてしまっている。

 現在いわゆる「ら抜き言葉」の扱いについていろいろ議論されている。日本語教育でいわゆる「グループU」と呼ばれている動詞と「来る」の可能形を、「食べられる」「見られる」「来られる」という代わりに、「食べれる」「見れる」「来れる」などと言うのだ。こういう表現が1990年代から若者を中心に広まってきた。

 これは特に年齢の高い人に「日本語の乱れ」として評判が悪い。しかし「られる」は可能の形のほかにも受け身、尊敬、自発などの意味に使われている複雑な言葉なので、可能の形が「れる」になって区別できるようになるのはかえっていい、あるいは必然だと考える人もいる。

 私は学生達に前者の、つまり伝統的な言い方を教えているが、実生活で彼らが耳にする言葉は確実に「ら抜き言葉」に変わっている。「ら抜き言葉」が絶対に間違いだとは言いがたい状況になっているのだ。若者の中で「ら抜き言葉」を使わないのは、伝統的な話し方をたたき込まれた外国人しかいないのではないだろうか。

 言葉は大勢の人が使うようになると「誤用」から「許容範囲」、そしてその時代の「標準的な表現」へと変わっていくのが普通だから、「ら抜き言葉」がそのうち市民権を得るのは時間の問題だろう。

 最近、私が気になって仕方がないのが、「ら抜き言葉」よりも「いただく」の誤用だ。例えば「Aさんにお金を貸していただいた」と言うべきところを「Aさんがお金を貸していただいた」というような表現をよく耳にする。

 しかし「Aさんに」と「Aさんが」ではお金を借りた人が全く違ってしまう。 「Aさんにお金を貸していただいた」と言えば、お金を借りた人は話し手だが、「Aさんがお金を貸していただいた」と言えば、借りたのは話し手ではなくAさんなのだ。

 ところがテレビなどで気をつけていると政治家、財界人など、ほとんどの人が自分が「誰かにしてもらっている」ことを話しているにもかかわらず「Aさんが〜」 のような言い方をしている。「いただく」は「もらう」の謙譲語だから、「いただく」のかわりに「もらう」を使ってみればすぐに間違いに気づくはずだと思うのだが。

 これは「ら抜き言葉」の比ではない。聞いたとたんに私は暗澹たる気持ちになる。「いただく」の誤用は誰もが問題にしないうちにどんどん広まって、今では間違いだと認識できる人もいなくなっているからだ。このまま「いただけない」表現が広まる世の中になってしまうのだろうか。
(07/05/2004)