ヤンさんは生きている
− 連載エッセー「徒然の森」第15回
by 北嶋 千鶴子

 今年2月に韓国の出版社から日本語能力試験3級用の問題集「文法読解」を刊行した。その校正の段階で、問題集の文章の中にたびたび「ヤンさん」という名前が登場してくるのに気づいた。ヤンさんを忘れたくない、忘れてはいけないと私は無意識に思っていたのではないだろうか。

 ヤンさんは日本語学校の教え子だった。日本語学校から大学に進んで間もなく、脳腫瘍が見つかった。手術の前日一人で病院へ見舞いに行ったとき、彼はとても元気だった。「病気の原因は脳に虫が入っただけ。虫を取ればすぐによくなります。心配は要りません」と何度も言った。不安を振り払うため、自分に言い聞かせていたのかもしれない。

 病室には、マカオから来たお母さんと妹がいた。一人で頑張っていた彼は、久しぶりにお母さん甘えているようだった。「お母さんのスープはとてもおいしい。病気のときはいつもこれに限る」と言って、おいしそうに飲んでいた。お母さんはヤンさんに食欲があるのを喜んでいた。でも私の心は重かった。脳に虫が入るなんて信じられなかったからだ。病院からの帰り道、財布をなくすほど私は動揺していた。

 手術はうまくいったと連絡があったが、手と足に麻痺が残った。その後、体調は回復せず、ヤンさんは医者に対する不信感から治療を拒否して、たびたび病院を飛び出したと後に聞いた。

 そんなこともあり、治療に支障をきたすので「がん」が告知された。間もなく他の先生たちと見舞いに行ったとき、彼の様子は痛々しかった。そのときの情景を思い浮かべると、今でも涙が出てくる。こうしてヤンさんについて書いている今も。

 その時ヤンさんは車いすに座って電話をかけていた。頭には包帯が巻かれていた。私たちに気が付くと笑って近づいてきた。ギリシャ彫刻のような端正な顔は少しもやつれていなかったが、片手は麻痺のためだらんと下がったままだった。私たちは車いすに座っているヤンさんと向かい合って話した。

 「マカオに帰ります。親孝行したいから、なるべくお母さんのそばで暮らしたい」と語ったとき、ヤンさんの目に涙が滲んでいるのに気づいた。私はお見舞いに行く前に絶対に泣いてはいけないと言われていたけれど、ヤンさんの涙を見て我慢できなくてしまった。

 「毎日のように友達がお見舞いに来てくれて、いろいろ世話をしてくれるので助かっている」とヤンさんは言う。ヤンさんがいい人だから、他の人もヤンさんに優しくしたくなるのだと思った。その日も友達が何人も来ていた。私たちは病気が治ったあとの生活などについて笑顔で語り合った。

 ヤンさんは私たちが知らないと思って、病名には触れなかった。私たちも知らない振りをしていたので話せなかった。あれでよかったのか、あるいは率直に話しをしたほうがよかったのか、今でもわからない。

 ヤンさんはマカオに帰って間も亡くなった。人は忘れられたときに本当に死ぬのだと言われる。だとすれば、私にとってヤンさんはまだ生きている。能力試験問題集を出した韓国の出版編集者ヨンさんはとても優しい人で、ヤンさんへの気持ちをつづった文章を、問題集のあとがきに入れてくれた。とても感謝している。

 あとがきを書いたことで、私はヤンさんの存在を再認識した。ヤンさんは確かに、私の中に生きている。
(07/03/2004)